農家紹介

ひうら農場

はじめまして

一笑百姓(いっしょうひゃくしょう)ひうら農場 代表の樋浦幸彦です。 新潟県の中央部。弥彦山のふもと、吉田本町(よしだもとまち)。
本町というと繁華街を思い浮かべる人も多いことと思いますが、商店はおろか、自動販売機すらない純農村。越後平野、信濃川の分流を水源とし、「彦七」という屋号ということもあり、代々百姓をしてきたと推測され、私で27代目と言われております。(祖父が墓を新しく建てる際、昔の墓をしらべたところ、間違いのないものと聞き及んでおります。)
家族経営であり、両親と私たち夫婦、そして、パート・アルバイト数名で、田んぼ7.5ヘクタール、大豆1.5ヘクタール、きゅうり30アールを育てています。(なかなか伝わりづらいですが、家族経営では限界の栽培面積と考えております。)



樋浦家の歴史

先祖は京都の「源 頼政の妻:菖蒲御前」の家来だったと言い伝えられております。菖蒲御前がこの地に来たとされるのが、保元元年(1156年)7月、平治の乱(へいじのらん)の3年前。
約800年前とされていますので、その頃、我が家の初代も来たのだろうと思います。
この地域の樋浦家は3系統あり、弥彦地区・西川地区そして吉田地区(当家)をそれぞれ本家とし、「直系統がどこか?」とご先祖様たちの間では問題になったと伝承されていますが、現在は交流はなく、それぞれにご活躍されていますが、他の系統の方は、学者であったり、医者であったりと聞いており、間違いなく当家が本流ではないと確信しております。(笑)

部落のお寺が火事になり、詳しい書物はあまり残っておらず、価値あるものといえば、仏壇と大きな茶の間そして、良質な田んぼ。年を重ねるごとに家族やご先祖への畏敬の気持ちは増すばかりです。
様々な言い伝えがありますが、「貉(ムジナ)屋敷」というものがあり、少しだけご紹介致します。1995年、家の改築をした際、天保のころから残っている建物を移動し、基礎工事をしたところ、仏壇から囲炉裏まで人が通れるくらいの大きさで、15mくらいの長い穴が見つかりました。
言い伝えにあった「貉の巣」。
その昔、一匹の貉が我が家に住み着いており、時に泥棒が入ろうした際は、化かして追い返し、時に大きな木の上に登って月を眺めていたり、時に人間の言葉をしゃべると言われ、死期を迎えた折り、「生まれた山に帰る」と当時のものに伝えたとかなんとか。 先祖は、群馬の山奥に碑を建て、祀ったとされており、数世代前の当主は半信半 疑でお参りに行った際、ちゃんと言い伝え通りに碑が存在していたと、祖母から聞き及んでおります。
その言い伝えの貉の穴が発見されたのですから、家族中が湧いたのは言うまでもありません。 歴史に詳しい親戚のおじさんは、わざわざ自主出版の本を書いてくださいました。 (樋浦家の言い伝え『 「おっこの木」 樋浦邦彦氏 著 』HPに公開しております。)




もとまちきゅうりの始まりと、ひうら農場のこれまでとこれから

さて、代々この地で農業を営めること、歴史を紐解くこと、とても楽しくたくさんの知恵を与えてくれることと思っております。 過去には果樹、養鶏、養豚、もちろん稲中心新潟で、早くから野菜を取り入れてきたのもこの地区の特徴です。
祖父の時代から施設園芸(ハウスでの野菜の栽培)をしており、田んぼの真ん中では、食用菊かきのもとの産地として、長年親しまれてきました。
1974年、父の代となり当時の吉田町 町長のもと「町の特産物を作る」という名のもと、11名の仲間で開設した本町そ菜出荷組合は、数年で新潟県内2位の出荷量を誇る産地として認知されました。
とても有り難いことに、学校給食や学校の勉強の中にも「もとまちきゅうり」がでるほど、地域では馴染みの深いものとなり、新潟県内最速最長出荷、3月初旬から12月初旬まで、ほとんど切れ間なく栽培を続けており、「もぉー胡瓜出始めたかぁー!早いねー!春だなぁ」と言われる春を知らせる存在として親しまれてきました。

特に、春のきゅうりは1年で一番香り風味もよく、春の日差しでも皮が火傷してしまうほど、柔らかいものとなっております。その他、冬場は、チンゲン菜や水菜などを育てており通年して、市場に出荷しております。40周年を機に、若手5名(息子たち)を中心にリブランディングを行い、ロゴマークや出荷箱を新しく変更し、燕市の特産物として広く認知してもらえるよう活動しております。

そして、二本柱ともいえる稲作ですが、経営的にも胡瓜と同じ位置づけとなっており、代々当農場の主要基盤作物です。 作業小屋の2階には博物館のような古い稲作用の農具があり、今も使っている道具箱には、家を建てた時(天保の年月日)の記載のあるものもあります。
先祖と同じ土俵で試行錯誤している様を思うと、大変感慨深いですが、祖父の時代は「量産時代」、父の時代は「付加価値時代」と、稲作も時代に合わせて行われてきま した。祖父に聞いたところ、昭和初期は、肥料を撒いた記憶もなく、稲ワラもすべて売ったそうです。

ずっと量産体制を持ってきたわけですが、1993 年の大凶作の際、全国の米屋からお米がなくなり、「闇米」などと言われ正規のルートではない取引きも多く行われたそうですが、これ機に、肥料は自然のものを使い、直接販売もはじめ現在の形へと変化してきたそうです。

野山、動植物、海のものを原材料に肥料を作り、親戚や同級生、知り合いに電話をかけ販売が開始されたそうで、「なにか申し訳ないから、送料の分、家でとれる野菜をつけよう!」と、「おまけ付きのこだわりの新潟のお米」として、口コミでどんどん広がっていったそうです。

そして、2000年、私が結婚と同時に帰った当時、少しずつお客さんは減っていた状態でした。 まず取り組んだのが、お米の無農薬栽培とインターネットでの販売でした。
息子が2000gで生まれ、「食べ物が悪かったのか?」と妻が悩む姿を見て、「息子を大きく育てること」「全国の悩む女性の手助けをしたいこと」を思い、無農薬栽培のお米の栽培を開始しました。
1-2年、とても順調に栽培できたのですが、3年目、突然、草が田んぼ一面に広がり、まったくお米がとれない状態になりました。(のちに、一株の雑草でもそれくらいの種ができ、少しずつ増えていったのが原因) それからは苦労の連続で、収穫量もまったくなく、インターネットの販売も約3年間受注ゼロ。 祖父からは“そんな古代農法やめろ!”と言われ、近所の方からも“大丈夫なのか?”と言われ続けました。

ほんの一部の田んぼだったので、両親は黙って見ていてくれましたが、申し訳ない気持ちと、先行きが見えない不安はありましたが、必死に打開策を探しました。5年後、急に草が消え、どこの田んぼよりも力強い稲が育ちました! その原理原則を1つずつ紐解いていくため、“手作業”にこだわり、自分の手足と五感を駆使して、原因を探りました。
現在では、インターネットの販売も少しずつ受注があり、全国の方々に発送するくらいのお米もとれるようになっております。しかし、新しい農法も続々とでてきており、インターネットの世界もドンドン変化してきているので、今後も研究と努力を惜しまず探求していこうと思います。

一口食べて笑顔になるものを。一笑百姓として生きていこう

今まで何度も諦めかけた農業でしたが、「先祖の田畑を守りたい」「食べてくださる方が全国にいる」「もっと農を研究したい」というものに後押しされ、なんとかここまでこれたこと、本当に感謝しかないです。2000年に生まれた息子も大きくなり、これからの世代に残せる農地と農法、そして人間の体に良いもの、笑顔になれる美味しさを探求しながら、「農」と自然と向き合っていきたいと思います。






この地区の大地主だった方は、近江商人だったと聞き及んでおります。「三方よし」、私も相手もまわりも良くするのが商売と、農業のもう一つの「業」としての部分もしっかりと向き合いつつ、「一口食べて笑顔になれるものを育てたい!満足いくものを育てた時、1つだけ笑える農家でいたい!そして、一生涯、百姓としていきたい!」という思いと共に、これからも一笑百姓として生きていこうと思います。


ひうら農場の朝カフェフォトギャラリー

ひうら農場の詳細情報

農園名ひうら農場
栽培しているもの米、もとまちきゅうり
住所〒959-0268
新潟県燕市吉田本町1064
TEL0256-93-3668
FAX0256-93-3668
Eメールhiura@helen.ocn.ne.jp
WEBサイトhttp://hiurafarm.com/index.html
Facebookhttps://www.facebook.com/hiurafarm/